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第33回 何が怪物を育てたのか – 食をめぐる深刻な情報格差【分断をこえてゆけ 有機と慣行の向こう側】

コラム・マンガ

とある漫画作品で描かれた癌をめぐる偽医学と病理医との対峙。この構図は、農薬忌避や無農薬信仰と、農と食の事実と似た様相を見せる。漫画作品を通しながら、誤った情報を信じてしまう心境や原因、大事にすべきこと(原理原則)は何かを考えてみた。

『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』という漫画が好きだ。
主人公の岸京一郎は誰もが認める凄腕の病理医だが、性格と目つきが悪く、人を見下す時以外はほぼ笑うことすらない。
冷たく傲慢で身勝手な印象を振りまきつつ、その実、病理診断と患者に対してはどこまでも真摯に向き合う姿が描かれる。

AGRI FACTの記事でわざわざ取り上げるからには、いわゆる疑似科学やデマへの厳しい追及が盛り込まれている作品なのかと期待させてしまうかもしれない。
残念ながら『フラジャイル』は、それらの主題を表立っては取り扱っていない。

だが、ときに静かな怒りを感じさせる描写がある。
とりわけ印象に残っているシーンを紹介したい。
第15巻『ゲノム医療編』の一幕だ。

インチキ上等

癌を再発し、抗癌剤を止めて緩和ケアに進もうとしている祖母・作山紀子(さくやまのりこ)に対し、中学生の孫・作山郁(いく)は治療の道を諦めきれない。

少しでも祖母に長生きしてほしいと願い、何か自分にできることはないかと奔走し、必死に情報を集めるなか、「料理でがんが消える」「末期がんも治った未承認治療」といった、いわゆる偽医学本を手に取るようになる。

こんな治療法があったなんて。
本に掲載されているクリニックに自ら問い合わせて、受診予約がとれることがわかると、郁はにわかに希望を抱く。

でも、なぜ祖母の担当医たちは、これらの治療法のことを教えてくれなかったのだろう?
疑問を感じながら病院に向かった郁の前に、岸京一郎があらわれる。

「これはインチキ医療本 しかも特に悪質なヤツだね」――

とりつく島もなく冷淡に断言する岸に対して、郁は反発を覚える。
ちゃんとお医者さんが書いている本で、実際に治った人の体験談も載っている、など「信じられる理由」を挙げて反論を試みるが、岸はそれらも悉く一蹴していく。

追い詰められ、しまいに「君はそんなものに自分の祖母を託すのか?」と突きつけられたところで、とうとう郁は表情を変え、涙ながらに訴える。

「医者はよってたかって癌の特効薬一つ作れない」
「そのくせできない無能を現実だ事実だって押しつける」

「役に立たないくせに ケチつけないで」
「インチキ上等だよ 期待させてくれるならなんでもいい」

「医者が 私たちにそんな口きく資格あるのかよ……」

岸は、相手によって態度を変えることをしない。
郁に対しても、決して「偽医学に騙される無知な子供」と軽んじたわけではない。
患者を想う家族のひとりと認めて向き合い、岸なりの誠実さで、すべて本当のことを話す。

「弁解はないよ」
「それは有効な治療法を作れていない僕たち医者と医学者全員の責任だ」
「インチキ医療がはびこるのもそれが原因だ」

そして最後に、小さな郁に対し深く体を折って、頭を下げる。
「力およびませんでした」――

自らの無力から目を逸らさない。
郁の言いたいことは全てわかっている。
だからこそ岸は最初から最後まで、表情を変えない。

フラジャイル 病理医岸京一郎 / alu.jp

フラジャイル 病理医岸京一郎 / alu.jp

エビデンスより価値のあるもの

誤った偽医学を検証する「フェイクバスター」的な発信に比べると、その起源を考える内省的な問いや議論は優先順位としてはどうしても後回しにされたり、あっても埋もれてしまいがちだ。

『フラジャイル』の岸が郁に見せた態度は、偽医学がはびこる現状へのひとつの応答であったと思う。
責められるべきはインチキ本を掴んだ郁ではない。
我々医者はむしろインチキ本を駆逐できなかった側の当事者である、という表明だ。

生まれたときから医療不信、という人はいない。
長い待ち時間に耐えても診察でほとんど話を聞いてもらえないなど、誰でも多少なりとも身に覚えのあるような経験の積み重ねのなかで、医療への不信感をくすぐるような情報に出会い、運が悪ければ囚われてしまう。
まして自分や家族に大病が発覚し、医療の限界に直面すれば、その動揺のなかで一層、心は囚われやすくなる。

底知れない不安のなかでは「話を最後まで聞いてくれること」「回復の希望を持たせてくれること」それ自体が、エビデンス以上の価値を持って輝く。
患者側の無知や、悪質な事業者を叩いたとしても、この事実まで変えることはできない。

私たちもまた悪を防げていない

『フラジャイル』の問いには、医療分野だけに留まらない広がりがある。
偽医学が現代医療への不信と不満を吸収して膨張する写し鏡なのだとすれば、農業や食の世界で日夜出回っている頭が痛くなるような誤った情報たちの起源には、何があるのだろうか?

さらには、そんな情報に何万もの人々が賛意を示し、あまつさえ政治や行政、メディアの世界にまで易々と侵入を許してしまっている。

そうして指を咥えて見ているうちに、農薬忌避/無農薬信仰がエスカレートし、食事療法に傾倒して医療行為を拒むといった、命に関わる事案さえ増加していくことになる。

なぜ私たちはこれほどの悪を未然に防ぐことができなかったのだろう。

誤った情報を流す主体こそが一義的には問題なのだとしても、その広がりを防げなかった、そして今もなお防げていない要因は?

巨大な情報格差

慣行農産物、すなわち世に出回るほぼ全ての国産農産物が、安全を担保する何重もの厳格な仕組みのなかで提供されていることを、AGRI FACTの読者の多くはすでに知っているかもしれない。

残留農薬は実際には検出されたとしても、生涯健康に影響を及ぼしようがないくらいの微量でしかないことも。

だが、「農薬が不安」と考える人に対して、自信を持ってその仕組みを説明できるほど理解している消費者となれば、日本中でもごく限られてくる。

小売店や国内生産者といったインフラへの漠然とした信頼感があり、日々深く意識しなくともとりあえず問題ないだろうと消費者が思えるのは、生産流通の現場の凄まじい努力の賜物である一方、漠然であるがゆえに「不安」の側にも引っ張られやすい。

探さないと手に入らない安心

さらに悪いことに、不安を増幅するような情報は何もしなくても流れてくるのに、安心を後押ししてくれるような情報は、よほど関心を持って取りに行かない限り、なかなか手に入らない。

生産流通サイドからの、安全性や環境負荷低減の取り組みに関する発信は、総じて不足してきたと言わざるを得ない。
さらに、誤った情報に対する政治や行政、企業などからの毅然とした応答も十分ではなかった。

その結果、もっとも食の安全性にセンシティブな妊娠出産〜子育てのステージを迎える層に対して、十分に安心を感じてもらえるよう語りかける情報提供のルートが、この国には存在していない。

私の場合はオーガニックカフェという特殊なコミュニティに十数年ものあいだ在籍していたが、まさに食の安全に不安を感じる層が集う場所にも関わらず、やはり自分から探しにいかない限りは、科学的に確かな情報が外部から提供されるような機会は一度もなかった。

このとき責められるべきは、不安に流される子育て世代の側だろうか?

作山郁に何を語りかけるか

ところで、『フラジャイル』では作山紀子の疾患が、彼女の家族にも5割の確率で遺伝し、40代までに発症するという点が物語の肝になっている。
郁はここで、単に癌患者の孫ではなく、自身も将来癌をわずらう可能性の高い当事者として描かれる。

例えば、いま目の前に「無農薬野菜で癌が治る/予防できる」という誤った情報を信じてしまった「作山郁」が立っていると想像してみる。
そのとき私たちは、いったい何を語りかけることができるだろう。
あるいはそのような残酷な状況を回避するために、個人として社会として、今から取り組めることはなんだろう。

誤った情報やその発信者への怒りもまた、私たちの視野を狭め、心を簡単に蝕んでいく。
そんなとき我に返り、道を踏み外さないための原理原則として「次の世代に何を残していきたいのか/何を残したくないのか」ということを、いつでも一番に考えていたい。

 

※記事内容は全て筆者個人の見解です。筆者が所属する組織・団体等の見解を示すものでは一切ありません。

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