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グリホサート論文撤回は「表示ミス」で科学的品質の問題ではない
2025年12月5日、毒性学の学術誌『Regulatory Toxicology and Pharmacology』が、ある論文の掲載を撤回した。論文とは、2000年に掲載された古いレビュー論文で、タイトルは「除草剤ラウンドアップとその有効成分グリホサートのヒトに対する安全性評価とリスク評価」。それまでに出版された多くの論文を検証して、ラウンドアップに発がん性はないとするものだ。著者は、ニューヨーク医科大学のウィリアムズ氏、ユトレヒト大学のクロエ氏、規制コンサルティング企業のムンロ氏の3名だった。この「ウィリアムズ論文」(便宜上そう呼ぶ)の撤回報道を受け、日本でも除草剤ラウンドアップの安全性に疑問を呈する情報が散見される。唐木英明東京大学名誉教授がウィリアムズ論文撤回の経緯と背景、科学的な意味を正しく解説する。
倫理違反のゴーストライティングが判明
撤回の根拠は、論文の著者名の不正だったのだが、それが分かったのは8年前だった。2017年、米国でのラウンドアップ訴訟の過程で公開されたモンサント社の内部文書、通称「モンサント・ペーパー」の中に、モンサントの科学者ヘイデンス氏が、2015年に送ったメールが含まれていた。そこには次のような一文があった。
「新しい論文も私たちが執筆し、外部の科学者には編集と署名だけをさせればコストを削減できる。ウィリアムズ論文の時にもそうやったように」
これは、ウィリアムズ論文がモンサント社員によって執筆され、外部の科学者の名前を借りて世に出された「ゴーストライティング(幽霊執筆)」を自白するものだった。科学の不正は大きく分けて「捏造」、「改ざん」、「盗用」の3種類だが、ゴーストライティングはこれとは別の「倫理違反」に該当する。学術出版において、著者は研究への実質的な貢献と関与が求められる。また資金提供者や企業の関与は「利益相反」として開示されなければならない。ところが、ウィリアムズ論文では、モンサントの関与は謝辞で触れられていたものの、執筆の主体が企業関係者であったことは隠蔽されていたのだ。
一般に、論文が発表されるとそれは多数の研究者が検証し、誤りがあれば指摘をする。ウィリアムズ論文は数多く引用され、長年にわたって検証されたが、科学の不正は見つかっていない。2017年にゴーストライティングという倫理違反が発覚したが、学術誌側は論文撤回などの措置を行うことはなかった。
オレスケス女史8年後の告発の行方
それから8年後にこの論文は一転して撤回になった、そのきっかけを作ったのは、ハーバード大学の科学史家オレスケス女史とヴィクトリア大学のカウロフ氏が2025年9月に発表した、『ゴーストライター論文の死後の生』と題する論文だ。その中で彼女らは次のように述べている。
「ウィリアムズ論文は企業の擁護活動であるにもかかわらず、それを科学的探究と偽って発表された。それによって、20年以上にわたり科学的議論を歪めてきた。これは『科学的詐欺』である。問題は、誰が論文を書いたかという点ではなく、誠実性の点ではすでに死んでいる『ゾンビ論文』が実際には生き延びて、ラウンドアップの危険性に対する認識をゆがめ、EPA(米国環境保護庁)などの規制機関の評価に影響を与えている。」
そして彼女らは学術誌に対して、論文の撤回を求めた。学術誌は改めて調査を行い、3人の著者に説明を求めたが、論文執筆から20年以上経過していることもあって、2名はすでに死去し、生存しているウィリアムズ氏からは回答は得られなかった。その結果、掲載誌は「ゴーストライター問題、説明責任、および利益相反の開示に関する倫理的懸念」を理由に、2025年12月に撤回を決定した。重要な点は、撤回理由が倫理問題に限定され、データが捏造された、あるいは結果が改ざんされたためではないことである。
こうしてオレスケス女史の「ウィリアムズ論文は科学的詐欺」という批判の根拠は、著者名が違っているという倫理問題に限定され、論文の内容が間違っていたわけではないことが明確になった。これは、「商品の表示に間違いがあったら、商品自体の品質が悪い」という「言いがかり」である。すると問題になるのは、なぜ彼女はそのような言いがかりをつけたのかである。
ラウンドアップ裁判進行中という告発のタイミング
論文発表から25年後、著者名の疑惑が判明してから8年後の2025年になぜ、突然、告発したのか? そのタイミングを考えると、その行為は、米国で進行中のラウンドアップ裁判を支援するためとしか考えられない。EPAは現在グリホサートの再評価(登録審査)を進めており、2026年に完了する予定である。EPAの最終決定の前に、「安全の根拠とされる論文の撤回」という学術的スキャンダルを通じて社会的圧力をかけ、EPAに「グリホサートは安全」という評価の転換を「強制」しようとしているという憶測である。
オレスケス女史は、「反農薬」というイデオロギー的目標を持ち、企業の不正行為を批判する活動に資金を提供している慈善団体から資金提供を受けている。彼女の目的はこの慈善団体の目的と同じで、農薬産業を新たな「巨大タバコ産業」に見せかけるために、彼女が作る不正の物語に適合する証拠だけを主張する一方で、安全性を示す多くの事実を無視しているという批判もある。
規制機関の結論は揺るがず
問題は、EPAがグリホサートの評価に、ウィリアムズ論文を引用していたことである。ラウンドアップに反対する人たちは、この論文の取り下げにより、EPAの評価は根拠を失ったと主張している。この論争に最初に応えたのが、欧州食品安全機関(EFSA)である。ウィリアムズ論文の疑惑が浮上した直後の2017年、EFSAは、これとは別のラウンドアップ関係のレビュー論文に同様のゴーストライティング疑惑があることを確認して、内部調査を実施した。その結果、EFSAは「仮に疑惑が事実であったとしても、EFSAによるグリホサート評価の結論には何の影響もない」と発表し、以下の理由を挙げている。
「このレビュー論文は、多くの試験報告書を分析したものだが、EFSAはそれらの試験報告書と生データを独自に検証している。従って、このレビュー論文が評価に与える影響は非常に小さい。この論文がモンサントによって資金提供されていることは論文中の謝辞や利益相反開示に明記されているので、EFSAはその背景を認識した上で評価を行っている。」
米国EPAもまったく同じ立場を取っている。EPAはウィリアムズ論文が引用しているデータの評価を独自に行っているので、データ自体の信頼性が損なわれない限り、論文撤回はEPAの結論を無効にするものではない、というものだ。
ウィリアムズ論文の撤回は、科学コミュニティに対して「誰が論文を書いたのか」という透明性の重要さを痛感させる教訓となった。ゴーストライティングは読者の信頼を裏切る行為であり、その点において撤回は正当化される。だからといって、同論文が提示した「グリホサートの安全性」という科学的結論の妥当性が失われたわけではない。この撤回は「表示の誤記」のためであり、「商品自体の安全性」が否定されたためではないのだ。
筆者唐木英明(食の信頼向上をめざす会代表、東京大学名誉教授) |



