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Vol.7 母親の味からデパ地下へ 「べんとう」の生物学【東大名誉教授 Dr. 唐木の生物学講義】

コラム・マンガ

第二次世界大戦後の焼け野原から高度経済成長期を経て現代の豊かな消費社会、さらには超高齢化社会へと進む中で、べんとうはそれぞれの時代の人々の働き方や生活スタイルと深く結びつきながら、その姿や意味合いを大きく変えてきました。それは、専業主婦が手作りする「家庭のべんとう」から始まり、工場やオフィスで働く人たちを支えた「産業給食」の誕生、国の政策と連動して変化した「学校給食」、さらには旅行ブームとともに人気を集めた「駅弁」や「デパ地下」での高級弁当文化、そしてお店でべんとうを買って食べる「中食」という巨大な市場の誕生、さらに、次世代のべんとう配達サービスという未来の姿に続いています。その歴史を見直すことは、戦前に生まれ、戦後の混乱期に子ども時代を過ごし、高度経済成長を享受した私自身の生涯を見直すことでもあります。

第1章「家庭のべんとう」の誕生と主婦の役割

戦後の混乱を脱して日本が急速に経済的な復興を遂げていく昭和の中ごろ、「べんとう」は、「家庭で作り、家族が持って出かけるもの」でした。この文化を支えていたのは、「夫は外で働き、妻は家を守る」という高度経済成長期に特徴的な役割分担を前提とした「専業主婦」の存在です。夫の職場での昼食や、育ち盛りの子どもたちのために、早朝からご飯を炊き、何人分ものべんとうを作る風景は、当時の日本の家庭の姿でした。

しかし、この家庭のべんとう文化は、主婦の無償の労働の上に成り立っていたという事実があります。毎朝、限られた時間の中で栄養バランスや彩りを考え、汁気が出ないように料理法を工夫し、弁当箱に隙間なく詰めるという作業は、高い技術が必要な仕事でした。

1960年前後から、主婦の無償の家事労働が社会的な問題になり、「月給に換算するといくらか」んどの試みが行われ、高度成長期末には、裁判所が損害賠償の算定のために主婦の家事労働を金銭評価するようになります。代表的な例が1974年の最高裁判決で、家事労働は女性労働者の平均賃金に相当するとしました。その後の女性の社会進出のなかで、「手作りが一番」という価値観は見直しを迫られることになります。

第2章 高度経済成長と「産業給食」の誕生

1950年代後半から始まった高度経済成長期は、日本の産業の仕組みと人口の動きに大きな変化をもたらしました。「金の卵」と呼ばれた集団就職など、農村から都市部への大規模な人口移動が起こり、京浜・阪神などを中心とする太平洋ベルト地帯に巨大な工場や近代的なオフィスビルが次々と建てられました。この劇的な都市化と工業化は、同時に「人が密集した空間で、数千人、数万人という働く人たちのお昼ご飯をいかに効率よく提供するか」という新たな社会問題を生み出しました。

多くの人が短いお昼休みに一斉にご飯を食べる。この巨大な需要に応えたのが、企業向けの仕出し弁当を中心とする外食産業や、「産業給食」です。1961年に大阪市で創業した丸玉給食株式会社(現在の株式会社マルタマフーズ)は、まさにこの高度経済成長期のべんとうの需要を支えるために、企業向け弁当の製造と配達をスタートさせた代表的な例です。これらの給食事業者は、カロリーが高くて品質が安定した食事を、安全に、毎日間違いなく大量に作り、一斉に配達するという高度な仕組みを作り上げました。

産業給食は、ただお腹を満たすだけのサービスではありません。企業側にとっても、従業員に安定した食事を提供することは、仕事の能率を維持し向上させることや、福利厚生を向上して長く働いてもらうことに直結する重要な経営の作戦でした。つまり、仕出し弁当を中心とする産業給食は、日本経済の土台を文字通り「胃袋から」支える役割を担っていたのです。その後、高度成長が終わり、産業の中心がサービス業へと移っていく中で、これらの企業は時代が求める病院や社会福祉施設での食事サービスの運営など、より専門的で多様な分野へと進化・転換していくことになります。

第3章 国の政策と「学校給食」の変化

戦後の深刻な食糧不足と子どもたちの栄養状態を改善するため、学校給食は「命をつなぐための国の支援」として機能しました。ユニセフ(国連児童基金)などからの国際的な支援を受け、脱脂粉乳が全国の学校で提供され、米国から余った小麦を受け入れたことなどを背景に、パン、ミルク、そしておかずが揃った「完全給食」が、私が小学生だった1951年に始まりました。この時期の学校給食は「西洋型の食生活」を子どもたちに教え、広める役割を果たしていました。

1970年代半ばには、高度経済成長による食生活の多様化・西洋化により、朝食にパンを食べる習慣が一般家庭に広く定着しました。その結果、日本人の「お米離れ」が進んだのです。一方で、農業技術の進歩により米の生産能力は飛躍的に高まり、政府が減反政策を強力に進めてもなお「米余り」が深刻な問題となりました。

この危機を切り抜けるため、政府と農水省は、子どもたちにお米を食べる習慣を根付かせることで、米の消費を増やし、米離れを食い止めるという目的で、学校給食に介入しました。その決定的な転換点が、1976年2月の文部省令「学校給食法施行規則等の一部改正する省令」で、ごはんの給食が全国で開始されたのです。

この変化は、教育や健康の面でも大きな変化をもたらしました。ごはんを主食として、主菜、副菜、そして牛乳・乳製品や果物を組み合わせる「日本型食生活」は、たんぱく質、脂肪、炭水化物のエネルギーバランスが優れているという認識が広まったのです。また、ごはんは和食・洋食・中華などさまざまな主菜や副菜と組み合わせやすい便利さがあり、パンとは違ってごはん自体に塩分が含まれていないため、健康管理や生活習慣病の予防の点からもメリットが大きいとされました。このように、米飯給食の導入は、食文化の西洋化を止めて、日本の伝統的な食卓の形を立て直そうとする社会運動としての側面を持っていました。

第4章 「中食」の誕生と技術の進歩

学校給食にごはんが導入されたのと同じ1970年代後半、日本のべんとう文化にもう一つの大きな変化が起きました。持ち帰り弁当やコンビニでべんとうが広めた「中食」です。

76年、埼玉県草加市に持ち帰り弁当チェーン「ほっかほっか亭」の第1号店がオープンしました。国産のお米を使い、店の中で手作りするおかず、そして「揚げたて・焼きたて・炊きたて」という3つの「たて」にこだわり、消費期限を2時間に設定するという徹底した品質管理で、あっという間に人気を集めました。この流れは進化を続け、08年に誕生した「HottoMotto(ほっともっと)」は、16年の鳥取県への出店をもって47都道府県すべての制覇を達成しました。

この中食産業の爆発的な発展は、人々の生活スタイルの変化と深く結びついています。80年代以降、女性の社会進出が本格的になり、専業主婦が家族のべんとうを手作りするという「昭和のスタイル」を維持することは難しくなりました。ホカホカ弁当やコンビニ弁当は多忙な現代人に便利さを提供し、かつての「お母さんの味」に代わる新しい食の仕組みとして定着していったのです。

そんな中で、家でのべんとう作りを劇的に楽にしたのが「冷凍食品」の技術進歩です。77年に発売された「エビ寄せフライ」のように、べんとう向けの冷凍食品は何十年にもわたって市場に定着してきましたが、近年の画期的な出来事は「自然解凍」の技術です。10年代に入り、味の素冷凍食品などが開発した自然解凍できるおかずやごはんは、凍ったままべんとう箱に詰めるだけで、お昼時には自然に解凍されて食べごろになるという、画期的な便利さを提供しました。自然解凍食品は、夏場には保冷剤の代わりとなってべんとうが傷むのを防ぐという、衛生面での効果も評価されました。さらに、自然解凍は衣の軽さや食感、香りを保つことができ、「自然解凍の方がおいしい」という評価まで獲得するようになりました。

第5章 余暇の拡大と「駅弁」文化

生活を支える「機能的なべんとう」が進化する一方で、特別な体験や娯楽と結びついた「情緒的なべんとう」も発展を遂げました。代表的なものが「駅弁」です。駅弁文化が多様性と楽しさを獲得したのが70年代前半です。もともと駅弁は、鉄道の乗客の食事として、国鉄(現在のJR)によって値段の上限が決められていました。しかし、70年にこの規制がなくなり、自由に価格を決められるようになりました。その結果、発売当初の値段が1000円という、当時としては破格の「豪華駅弁」が登場し、社会に強いインパクトを与えたのです。

この駅弁の高級化・多様化と同じ時期に、国鉄は「ディスカバー・ジャパン」という鉄道史に残る観光PRキャンペーンを展開しました。1970年に開催された大阪万博の余韻を引き継ぎ、「美しい日本と私」をテーマにしたこのキャンペーンは、団体中心の旅行から、若者や女性を中心とした個人旅行への大きな変化を強力に後押ししました。

個人旅行が増えるにつれて、旅行者の消費の仕方も大きく変わりました。駅弁は「その土地の風土や特産品を味わい、旅の情緒を感じるための文化的な体験」へと変化したのです。この時代の駅弁のパッケージには、特急列車の写真や「ディスカバー・ジャパン」のロゴが印刷され、旅の思い出として集める人もいるなど、深い情緒的な価値とロマンを持っていました。

地方の駅でしか買えなかった駅弁という「郷土の味」を、一堂に集めて都市部の消費者に提供する巨大なイベントとして定着したのが、デパートで行われる「駅弁大会」です。駅弁がそれぞれの駅で地元の特色を前面に押し出すようになった結果、これらを比べるイベントが求められました。駅弁大会の始まりは、53年の大阪高島屋と言われていますが、現在まで続いているのは65年にスタートした熊本の鶴屋百貨店です。そして、全国一の規模と知名度を誇り、「駅弁甲子園」という異名をとるまでに成長したのが、66年に第1回が開催された東京新宿の京王百貨店「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」です。

第1回大会は、京王百貨店新宿店がオープンした直後、高度経済成長期の真っただ中に開催されました。そのに販売された駅弁はわずか30種類ほどだったにもかかわらず、9日間で4600万円以上の売上を記録しました。大卒の初任給が約2万円だった時代背景を考えると、この数字は都市部の人々がいかに地方の特産品や旅の情緒に飢えていたかを示す驚くべき記録です。山陰本線鳥取駅の「かに寿司」や、函館本線森駅の「いかめし」(後に売上個数ランキング1位を通算50回達成)など、その場で作って売る実演販売の活気あふれる光景は、冬の風物詩としてすっかり定着しました。

日本鉄道構内営業中央会は、JRの発足した月である4月と、弁当の「弁」の字が数字の4と十に似ていること、さらに「当(とう)」の語呂合わせから、4月10日を「駅弁の日」と決めて、文化を広める努力をしています。

第6章 バブル崩壊と「デパ地下」高級べんとう

90年代初頭のバブル崩壊の後、日本人の価値観は「大量消費」から「質の重視」へと変わり、多様化していきました。長引く平成の不景気の中で、高級レストランや料亭での食事は減りましたが、自宅での食事に多少の贅沢を求める「プチ贅沢」という消費心理が生まれました。このニーズを的確に捉え、巨大な市場を作ったのがデパートの地下食料品売り場、いわゆる「デパ地下」です。

デパ地下文化が頂点に達した象徴的な出来事として、00年に誕生した東急百貨店の「東急フードショー」が挙げられます。「食のテーマパーク」という画期的なコンセプトを掲げたこの空間は、百貨店の食料品売り場という枠を超え、売り場自体がエンターテインメント性を持ち、見た目の美しさと圧倒的な高級感を提供する場へと進化しました。25年に25周年を迎えるこの企画は、渋谷駅周辺の再開発に合わせて形を変えながら、食のトレンドの発信を続けています。

デパ地下で販売されるべんとうは、数百円のコンビニ弁当や持ち帰り弁当とはレベルが違います。有名な料亭、老舗ホテル、あるいはミシュランの星を獲得した一流レストランの味が、数千円という価格設定で美しく箱に詰められて販売されています。べんとうは「食卓を豊かに演出し、心に満足感を与えてくれる嗜好品」へとその役割を大きく広げたのです。

第7章 「食の安全」と危機管理

べんとうが大量生産されるようになると、一度衛生管理に失敗すれば大規模な食中毒を引き起こすリスクと常に隣り合わせになります。61年に腸炎ビブリオが食中毒の原因菌として定義されるなど、少しずつ原因の究明が進められてきましたが、80年には山口県の学校給食でカンピロバクターによる500名以上の集団食中毒が発生しています。さらに、96年には学校給食などを通じて腸管出血性大腸菌O157による集団食中毒が全国で多く発生し、大阪の堺市だけでも1万人以上が発症するという、これまでにない事態を引き起こしました。00年には、低脂肪乳などを原因とする黄色ブドウ球菌の食中毒で患者数が約1万4千人に達する事件も起こり、製造の過程における厳しい衛生管理の必要性が痛感されました。

こうした食中毒の歴史と絶え間ないリスクに立ち向かうため、国や自治体、そして業界は衛生管理の体制を築いてきました。国の動きとして、18年6月に食品衛生法が改正され、21年から原則としてすべての食品を扱う事業者を対象に「HACCP」に沿った衛生管理が義務化されました。HACCPは、これまでの「出来上がった製品を抜き取って検査する」という事後対応とは違い、材料を受け入れるところから、作って出荷するまでのすべての工程を継続的に監視して記録する、予防型の衛生管理のシステムです。

同時に、業界団体による自主的な安全性を高める取り組みも長年続けられています。公益社団法人日本べんとう振興協会は、安全なべんとうを提供することを目的とし、日本で唯一となる「食品微生物検査技士」という資格を認定する制度を実施しています。このような国による法律の整備と、業界自身の絶え間ない人材育成・技術向上によって、日本のべんとう産業は高い安全性を維持しようと頑張り続けています。

第8章 超高齢化社会の「宅配べんとう」

戦後から現代に至るまで、社会の変化に合わせて姿を変えてきたべんとう産業は、さらに進化を続けています。最大のポイントが、「超高齢化社会」です。富士経済グループ「高齢者向け食品市場の将来展望2019」によると、お年寄り向け食品の国内市場は拡大し続けています。19年見込みの市場規模は、在宅向けが166億円(前の年と比べて109.2%)、施設向けが1525億円(前の年と比べて103.2%)、合計で1691億円(前の年と比べて103.7%)に達し、堅調な成長を示しています。

年齢を重ねるにつれて噛む力や飲み込む力が弱くなることに配慮した「やわらか食」や、糖尿病や腎臓病などに向けた塩分・たんぱく質を厳密に管理した「健康管理食」が、毎日のべんとうとしてお年寄りの自宅に届けられます。さらに重要なのは、この配食サービスが単なる食事のデリバリーにとどまらない点です。配達員がお年寄りに毎日べんとうを直接手渡す作業は、一人暮らしのお年寄りの「安否確認」という見守り機能も兼ね備えるようになっています。かつて専業主婦が家の中で家族のためだけに作っていたべんとうは、今や地域のお年寄りを社会全体で見守るための「公共的なべんとう」へとその性質を根本的に変えているのです。

おわりに

戦後のべんとうの歴史には二つの対照的な、しかし補い合う方向が見えます。一つは「機能性と合理性の追求」であり、もう一つは「情緒性と体験する価値の追求」です。高度経済成長期を支えた産業給食、70年代に誕生した持ち帰り弁当、そして「自然解凍」という冷凍食品技術の進歩は、前者の極みです。これらは、女性の社会進出を後押しし、効率的な社会のサイクルを回すための手段として機能しました。そしてその高度な技術は、超高齢化社会における配食サービスに応用されています。

一方で、「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」とともに花開いた豪華な駅弁、熱狂的な駅弁大会、そしてデパ地下の華やかで豪華な高級弁当は、後者の極みです。効率化によって社会全体が生み出した経済的なゆとりを、食を通じた「非日常の体験」や「プチ贅沢」へと変換する文化の装置として、これらは消費者の心を強く掴んで離しません。

未来のべんとう産業は、個人の健康状態や遺伝情報に完全に合わせた栄養管理、プラスチックごみ問題に対応した環境に優しい容器の開発、あるいは気候変動を見据えた代わりの食材の使用など、さらに高度で地球規模の課題の解決を求められるでしょう。しかし、限られた小さな箱の中に、彩り、栄養バランス、そして何らかの「想い」や「季節感」を細かく詰め込むという日本独自の哲学と美意識は、テクノロジーや社会の仕組みがどれほど変わろうとも、決して失われることなく次の世代へと受け継がれていくはずです。べんとうは、過去も未来も、日本人の心と社会を映し出す、最も身近で奥深い文化の結晶であり続けるでしょう。

註:この記事は、唐木英明氏のnote『東大名誉教授の生物学講義』 2026年6月6日の記事を許可を得て、一部編集の上、転載させていただきました。オリジナルをお読みになりたい方は『東大名誉教授の生物学講義』をご覧ください。

 

【Dr. 唐木の生物学講義】記事一覧

筆者

唐木英明(食の信頼向上をめざす会代表、東京大学名誉教授)

 

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