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リスクコミュニケーションで不安に対処する – 「ネットにあふれる農業と食の不安を考える~どのように対処すべきか」
「農業と食の不安にどのように対処すべきか。答えはリスクコミュニケーションを実行することだ。相手が信じている誤解を解消するリスコミは戦いだ。戦略と戦術と訓練がないと失敗する。実践を通して教訓を得ることが大切だ」。唐木英明氏は農学博士で獣医師でもあり、食品安全の第一人者としてBSE問題などに対処してきた人物である。今回、自身のリスクコミュニケーションの経験を踏まえ講演した。
不安の程度を知る
知識と行動のギャップリスクコミュニケーション(以下、リスコミ)とは対話である。対話の成立のためには、まず相手の不安の程度を知ることから始めなければならない。
食品安全委員会のアンケート調査(2018年)では、食品の添加物が「とても不安」と答えた人は44%、残留農薬が「とても不安」と答えた人は49%に上る。一方、消費者庁の調査では、常に無添加食品を買うと答えた人は約1割、無農薬野菜を買うと答えた人は6%にとどまる。つまりアンケート調査と消費行動にギャップがある。人間の社会行動は、多くの人の意見と違うことを言ったら批判されるのではないかという心理に影響される。そのため、実際の買い物のときには怖いとは思わないにもかかわらず、アンケート用紙で「怖いか」と聞かれると「怖い」と答える人が多い。このような知識レベルの不安が消費レベルに進む前に対処しておくのがリスコミの目的である。
不安の原因を知る① ――社会の変化
現在は不安の時代とも言われる。不安が大きくなった原因には、社会の変化と人間の本能の2つがある。
産業革命以後の科学技術の進歩によってリスクが変化した。古くからある食中毒菌、腐敗、異物などのリスクは五感で認識できる。しかし、工業社会で生まれた化学物質、放射性物質、遺伝子組換え、BSEのプリオンなど新しいリスクは五感で認識できない。これらは、専門家が科学技術を使って初めてわかるものである。たとえそのリスクが厳しく管理され被害者が少なくとも、見えないものは不安だ。こうして人々の間に科学者や政府はリスクを正しく伝えているのかという不安が広がっていった。
また、インターネットの普及とともにメディアも変化した。かつては新聞やテレビがフィルター機能を持ち、情報を選別して重要なものだけを伝えていた。現在はすべての人がSNSなどを使って自由に情報を発信し、それを制限するフィルターはない。情報が民主化された反面、情報過多で処理困難に陥ってしまった人々は同調する情報だけを選択し、インターネット検索は同調する情報だけ提供するという状況が生まれた。発信者の匿名性によってフェイクニュースや陰謀論が増え、利己主義や排他主義が強まり、自分が正義だという風潮も出てきている。
さらに、司法、立法、行政の対立と混乱が生まれた。たとえば、文科省の学校給食衛生管理基準では、「有害もしくは不必要な食品添加物は使用しない」としているが、厚労省では認可した添加物は100%安全だとしている。また立法は化学肥料、農薬、遺伝子組換えを原則として使用しない有機農業推進法を定めたが、農水省は3つとも許可している。こうして国民は何を信じたらよいかわからなくなったことが不安を大きくしている。
不安の原因を知る② ――変化に対応できない本能
科学技術が進歩し社会が変わっても、人間はそのような急速な変化に対応できない。狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会、そしてSociety 5.0と呼ばれる新たな社会が始まっているが、「見えないリスク」への不安が示すように人間の本能は工業社会にも対応できていない。
変わらないのは人間の利己主義だ。利己主義は動物的な生存本能である。一方、人間社会では利己主義を抑えないと生きられない。しかし、かつての日本の地域社会のような利己主義を抑える力は現代では薄れてきている。世界の流れを見ると、かつて排他的部族社会で多様性を認めなかった時代から、2つの大戦を経て、平和主義やグローバリズムが広まり多様性を認める時代になった。生物学的な観点で言えば、多様性を認める時代は人間の本能に反している。いま再び他者や多様性を認めない本能の時代に戻りつつある。
また、人間は少ない努力で直感的に結論を求めようとする。これをヒューリスティックと呼ぶ。危険から逃れるための動物の本能である。恐怖も不安も危険なものから逃げるための感情だ。ただし恐怖は対象がわかるもの、不安は対象がわからないものに対する感情だ。わからないものは拒否し不安になるのも人間の本能なのである。わからないものは信頼する人に依存する本能がある。人間が進化の過程で身に付けたものだ。知識と経験があるリーダーに従うことで危険から逃れてきたからである。現在、信頼する人というのは、マスメディアからSNSのスーパースプレッダーに移っている。
さらに、危機回避バイアスという本能も不安を増す要因だ。自分の命を守るために「危険」や「不安」という情報は聞き逃さないが、「安全」という情報には注意を払わない。この危機回避バイアスにより情報収集にアンバランスが生じる。情報発信も危険を伝える情報は売れるので多いが、安全を伝える情報は売れないので少なくなる。
しかし、危機回避バイアスをくつがえすものがある。「利益」である。たとえば車の運転は危険が伴うが、便利さという利益があるので楽観バイアスが働く。年間3000人以上が交通事故で亡くなっているが騒がれず、食中毒で2、3人が亡くなると騒がれるのはこのためである。また、繰り返し聞く危険情報に「慣れ」ることや、自分に対する社会の「評価」は認知バイアスと呼ばれ、危機回避バイアスを弱める。
こうして、厳しい規制で安全が守られている食品添加物、残留農薬、遺伝子組換え食品、中国産食品などに対しては、健康被害のリスクが小さいにもかかわらず、わからないので不安が大きく、食中毒や過食、野菜不足、喫煙、飲酒、いわゆる健康食品などは健康被害のリスクが大きいにもかかわらず不安が小さくなるのである。
不安をつくるビジネス ――ラウンドアップ風評を例に
本能の後押しがあるため、人間に恐怖感を植えつけるのは簡単だ。したがって恐怖感をあおる不安ビジネスが生まれるのである。
ラウンドアップの風評の元になったセラリーニの論文は誤りと分かって撤回処分になった。また米国での大規模調査では、ラウンドアップと発がんとは無関係であることが明らかになっている。しかし、その事実を無視して、国際がん研究機関はラウンドアップの主成分であるグリホサートには「おそらく発がん性がある」と記載した。すると何が起きたか。世界の人々は、セラリーニの論文の宣伝映画を見てラウンドアップのリスクを信じてしまった。また国際がん研究機関の記載を元に米国の弁護士がリードし、約4万人がラウンドアップの発売元であるモンサント社を訴える事態となっている。これまで行なわれた裁判では、裁判官や陪審員たちの感情に訴えた原告側が勝訴した。そのときの弁護士は、後にモンサントを脅迫し高額の企業弁護士契約を迫り逮捕されている。
リスコミの方法を知る ――正しい情報と信頼関係
BSE問題、福島原発の問題、中国産冷凍餃子の問題、添加物、残留農薬、遺伝子組換えなどの食品安全の問題は、安全対策とリスコミの両方で解決する問題である。
リスコミは、科学的に正しい情報を伝えることが基本だ。すると多くの人は論理的で科学的な判断ができるようになる。メディアの協力も重要であり、意見交換会を開いて理解してもらうことが必要だ。
しかし、科学的に正しいことを伝えても理解してもらえないこともある。人間の本能である確証バイアスが働くからである。自分の先入観と一致する情報だけを集め、異なる情報は無視したり反発したり別の解釈をするのが確証バイアスである。同じ先入観を持った人たちがグループをつくり対立する。これは狩猟社会から変わっていないのだ。
合意がなければ事実は意見のひとつにすぎない時代になっている。したがって、リスコミでは感情的なアプローチも必要だ。「理屈はわからないけど、あなたが言うなら私は信頼する」と言ってもらえるような信頼を得ることが最終手段である。
いま人間の本能を悪用した不安ビジネスが横行している。この情報戦争時代では、フェイクニュースが出たらすぐに否定しなければならない。企業は週刊誌などが誤った記事を掲載しても、次のネタにされることを恐れて反論しない。これが週刊誌を増長させ、モンスター客を養成している。企業は積極的にリスコミに取り組むべきである。
※『農業経営者』2020年4月号イベントレポート、「リスクコミュニケーションで不安に対処する」記念講演「ネットにあふれる農業と食の不安を考える~どのように対処すべきか」を一部再編集し、転載
講演唐木英明(食の信頼向上をめざす会代表、東京大学名誉教授) |