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第21回「自然派」というレッテルが塗りつぶしてしまうもの【分断をこえてゆけ 有機と慣行の向こう側】
「自然派」的なコミュニティに魅了されていた時期がある間宮さんですが、そこにつどう人々や空気感は今も嫌いではないと言います。「自然派」に括られて批判されていたかもしれない過去の自分を思い起こした時、他者の人格についレッテルを貼りたくなる現在の自己の乱暴さにも気がつくのでした。
相変わらず、オーガニックを批判する人、と捉えられることがある。
ちゃんと読んでいただければそんなことはない、と言いたいのだが、もし読んだ上でそう見えているなら、こちらの力不足を謝るしかない。
だが、例えば科学ジャーナリストの松永和紀さんの記事に書かれているような事実を踏まえることって、有機農業を応援する気持ちと、本来何もバッティングしない。
誤解されがちな複雑な事象を、わかりやすく紐解いて解説する試みは誰にとっても有用な共有財産になるのではと思うのだが、オーガニックこそ唯一の解決策だという御旗を振り回したい(一部の)人たちにとっては苦々しい内容なのかもしれない。
みんな、オーガニックに色々なものを背負わせすぎだと思う。
将来を期待されすぎて重圧に苦しむ子供を見ているようで、心配になる。
「お前、どっちなんだ」には答えない
久松農園の久松達央さんは最新の著書から一部内容を先行公開した記事中で、有機農業vs慣行農業という構図自体が虚構であり、現実を正確に反映していないと論じている。
その点、当連載のタイトルも、すみません、と縮こまる気持ちになるが、恥を承知で弁明すれば、そのような「対立していると思われがちな項目立て」自体を横にズラし、骨抜きにしたいというのが連載の意図だ。
「お前、どっちの人間なんだよ」と凄まれた時には、その問いからまず全速で逃げるに限る。
「AかBか、どちらを選ぶか」「世界の真実はシンプルだ」的な「名言」めいたものの流通を支えるのは、世界はシンプルなものであってほしいという願望そのものだ。
考えることを放棄する言い訳が欲しい人への甘言という点では、ひとが陰謀論に誘惑されてしまう場面ともよく似ている。
高度な専門知識も文才もない自分にできるのは、このような「お前、どっちなんだ」から逃げ続けるややこしい、めんどくさい奴としての事例を開示していくことが精一杯だ。
その意味では、自分自身の苦い過去についてもきちんと触れないとフェアではない。
私が「自然派」になった理由
オーガニックの世界にいると、何らかのルーツやストーリーが背景にあって、辿り着くべくして辿り着いた、という人も少なくない。
親が自然派で手作りが好きだった、という素朴なものから、深刻な病気の経験やトラウマを抱えたハードなものまで色々だ。
昔、カフェで働きたいと履歴書を送ってきてくれた人の大半も、そういう何らかの然るべき動機を持っていたが、僕の場合は農業やオーガニックには何ら興味も関わりもない、地方のサラリーマン家庭に育った。
ただ、生まれて初めて出会った農家がオーガニック系のマルシェに出ていた有機農家だったという理由で、何も考えず有機農業への好感と興味が跳ね上がった、というのが本当のところ。
2001年頃のことだ。
そこから何を間違えたか、やがてオーガニックカフェの店長を務めるまで至ることになる。
もちろんそうしたマルシェに辿り着くくらいなので、元々環境問題やリベラルな社会運動に多少の関心と共感は持っていた。
が、具体的に接点を持ち関わるようになったのはこの時からだ。
社会を変える、という高揚感
その後も同質のコミュニティでひらかれるイベントやマルシェなどを通じて、芋づる式に様々な活動や人物に出会い(それらは「つながる」「つながった」とよく表現される)、実にありがちな仕方で、新しく聞くこと知ることをいちいち無防備に鵜呑みにしていった。
この食べ物はこんなに危ないのだとか、この植物にはこんな効果があるので薬はいらないとかいった話を聞くたびに、そうなんですね、知らなかった、それは素晴らしいですね!と頷き、おどろき、共感をかさねることで、自分がコミュニティの一員としてより深く受け入れられていくような感覚があった。
それが科学的に正しいのかどうか、バイアスがかかっていないか、など当時は考えもしなかった。
さらに言えば、従来の社会通念とは異なる新しい価値観をつくろうとしている人たちの輪に、自分は今まさに加わっているのだという高揚感がなかったといえば嘘になる。
社会をもっと良くしようという善意の人々がこれだけ集まっているのだから間違っているはずがない、という根拠のない希望があった。
活動がメディア等で好意的に取り上げられようものなら、さらに確信を深め誇らしい気持ちになった。
実際、そういう場は(少なくとも、何事も起こらないうちは)誰でもウェルカムなあたたかい雰囲気に満ちている。
多かれ少なかれ、社会のなかで疎外感を持っていたり生きづらさを感じる人の居場所にもなっていたのだろう。
そうした側面自体は、今でもあまり批判する気にはなれないでいる。
貢献する喜びと一体感
コミュニティに所属している充足感をより高めるには、そのコミュニティに貢献することだ。
ボランティアで何かの運営を手伝ったり、署名に協力したり、イベントに人を誘ったり、あるいは、人と人をつなぐというのも良い。
こうしてある程度までは、個々の主体的なはたらきによって輪が広がるようにできている。
輪の中心にカリスマ的な人物がいれば、さらにその求心力は高まる。
メンバー同士で貢献度合いを競い合うような流れになることもある。
食べ物はもちろん、アートや音楽、身体表現、ヒッピー文化との親和性も高い。
特に音楽などのパフォーマンスは彼らの世界観を昇華して体現する力があるので、イベントの場を通じてコミュニティに大きな一体感や幸福感をもたらす。
縄文文化や、アイヌ・ハワイアン・ネイティブアメリカンなどの先住民文化にも共感しているため、民族楽器や民族舞踊との相性が良い。
このような場の内部では価値判断の基準が社会一般とはやや異なるため、科学的根拠や社会通念上の正当性はそもそも必要とされていない。
「人」こそが大事だ。
生きづらいこの社会や権力に抗って新しい価値観を生み出そうとしている「人」であること。
魂から共感できる「あの人」のやっていることなのだから応援しよう、一緒に広げよう。
そういう世界観に科学をぶつけたところで、話が噛み合うはずもない。
社会が自分を救ってくれなかったからこそ別のコミュニティに救いを求めている人にとって、冷徹な科学的事実は「敵」としての社会そのものだ。
社会はあなたの敵ではない
当然、マルチビジネスや疑似医学などの落とし穴に対しても、きわめて無防備に近い。
信念に近い部分で価値観を共有できているというベースがあって近づいてくるのだから、ひとたまりもない。
医療不信が第一にあって、その信念を認めて強化してくれるコミュニティを選んだ人に対して、びわの葉で病気は治りませんよ、と解説しても伝わらない。
極端に言えば、彼らが本当に必要としているのはそもそも「適切な治療」ではないからだ。
まず社会はあなたの敵ではないのだ、少なくとも味方はいるのだ、というメッセージを届けるところからスタートしなければ、どうにもならない。
SNSとスマートフォンが普及した現在、このような傾向は当時と比べても顕著に先鋭化している。
そこから健康被害や分断が生まれる構造自体は悪だが、つどう個々人やコミュニティの空気自体は、実をいうと、今もそこまで嫌いになれない。
楽しいこともたくさんあったのだ。
好感を持っていた著名人などが、誤った情報や信念を拡散しているのを見て「あの人もそっちに行ってしまったのか」と嘆き合う場面が増えている。
だが、過去のおこないも含めて考えれば、自分もいつSNSで叩かれる側に回っても不思議ではない、と気づく。
ひとりの人間の人格をあっさりと「そっち」にまとめてしまう自らの乱暴さからも、目を逸らさずにいたい。
※記事内容は全て筆者個人の見解です。筆者が所属する組織・団体等の見解を示すものでは一切ありません。
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